プロジェクト
まだまだ記憶に新しい、2024年パリ・パラリンピックでの日本勢メダルラッシュ。中でも車いすテニス大会は、男子女子ともに金メダルを獲得し、たくさんの観客に勇気と感動を与えました。そんな車いすテニスの世界で、選手から特別視される大会が40年も前から、福岡・飯塚で開催されているのをご存知ですか?
飯塚国際車いすテニス大会(Japan Open)は、世界四大大会に次ぐスーパーシリーズであり、アジア最高峰の車いすテニス大会。40周年イヤーとなった2024年は、電通九州とともにプロモーションビデオを制作し、大会も大いに盛り上がりました。プロスポーツ界のみならず、地域活性の文脈でも熱い視線を注がれているこの大会が、どのように生まれ、40周年イヤーにどんな企画を実施したのか。飯塚国際車いすテニス大会スタッフの皆さんと電通九州メンバーに取材しました。
リハビリ治療の試みが世界大会になるまで
車いすテニスの歴史は、1970年代のアメリカで始まります。1980年に、テニスのグランドスラムの一つである全米オープンで車いすテニスの試合が行われ、日本にもその存在が知られるようになりました。飯塚では、1983年に総合せき損センターで脊髄(せきずい)損傷者のリハビリの一つとして、車いすテニスを導入。これが、飯塚国際車いすテニス大会の源流となります。
前田さま:「飯塚は、直方や田川と並ぶ石炭の街です。身体を酷使して働いた炭鉱労働者のケアのために、整形外科やリハビリ施設が多くあります。当時はまだ、積極的に身体を使うリハビリは敬遠されがちでしたが、リハビリ治療に熱心でテニスの素養もあった医師やケースワーカーが、車いすテニスの可能性に目をつけたのです」
近所のテニスクラブでテニスを楽しんでいた前田さんは、通っていたテニスコートで車いすの方を見かけるようになってから、ボランティアとしてテニス指導を始めました。
前田さま:「最初はみんな嫌がるんですよ。『何で俺がいまさら、テニスなんて気取ったことせないかんのか』って。でも、いざプレーしてみると、いい汗をかいて気持ちいいから、だんだんと積極的になってきて。私たちとしても、患者さんたちの晴れやかな顔を見るのがやりがいになっていましたね」
1984年には、九州車いすテニスクラブが発足。せき損センターとしても、病院全体で車いすテニスをバックアップしていくことになります。テニスコートの利用交渉をして行く中で、地域での理解も徐々に広がり、地元・飯塚のロータリークラブも全面的に協力してくれることに。そして翌1985年には、飯塚国際車いすテニス大会の第一回が開催されます。
前田さま:「いざやるとなったらとことんやるのが、飯塚らしさなのかもしれません。国内64名、海外からも14名の選手が参加して、始球式はひげの殿下として親しまれた三笠宮寬仁親王殿下にしていただき、とっても華々しい幕開けになりました」
飯塚は、炭鉱事業から端を発した麻生グループのお膝元でもあります。翌年発足することになる九州車いすテニス協会で会長に就任することになる麻生泰さんや飯塚青年会議所が音頭を取り、自衛隊飯塚駐屯地、せき損センターをはじめとする病院関係者などが総出でボランティアを行い、世界大会を実現させました。手厚い歓迎を受けた選手たちによって、大会は評判となります。後に「イイヅカ方式」と呼ばれ、その稀有な大会運営方法を学ぶために、各国から視察が来るほどになりました。
柳瀬さま:「飯塚は、直方や田川と並ぶ石炭の街です。身体を酷使して働いた炭鉱労働者のケアのために、整形外科やリハビリ施設が多くあります。当時はまだ、積極的に身体を使うリハビリは敬遠されがちでしたが、リハビリ治療に熱心でテニスの素養もあった医師やケースワーカーが、車いすテニスの可能性に目をつけたのです」
2004年にはアジア唯一のスーパーシリーズに昇格。2018年3月には、飯塚国際車いすテニス大会に天皇杯・皇后杯が下賜され、知名度を一気に高めます。2020年からの3年間はコロナ禍により中止を余儀なくされましたが、2023年大会より復活。2024年の記念すべき第40回大会は、観客約10,000人、ボランティア約2,000人を動員する飯塚市のトップイベントとなりました。
日本は知らなくても、イイヅカは知っている
車いすテニス協会の活動は、飯塚国際車いすテニス大会の運営に留まりません。地方での車いすテニス体験会や、パラリンピック選手を連れての学校出前授業、小学生向けの車いすテニス教室など、車いすテニスの普及に向けて、さまざまな活動に取り組んでいます。それらを柳瀬さんとともに実施しているのが、片上さんです。
片上さま:「私も約20年前からお手伝いしています。初めて車いすテニスを見た時の衝撃が、ずっと忘れられなくて。2019年に新しい事務局員の募集があり、これは是が非でも入りたいと思って、勤めていた会社に相談しました。会社からも快く送り出していただき、今は事務局の専任職員として働いています。そんなふうに自分の人生を大きく変えてくれたのが、この組織であり、大会です。毎年、大会が待ち遠しい気持ちは、今でも変わりませんね」
では、これほどまでに関わる人を虜にする飯塚国際車いすテニス大会の魅力とは一体何なのでしょうか。大きな特徴は、選手との距離の近さにあると前田さんは言います。
前田さま:「車いすの選手を宿舎にお連れしたり、出場までのサポートをしていると、選手とボランティアとの距離が近くなるんですね。そうすると、選手を応援する気持ちが湧いてくるし、毎年お馴染みの選手が来るから、1年に一度の楽しみにもなります。ひいきの選手が成長したり、ランキングを駆け上がったりすると、自分のことのように嬉しくなって。それが、気持ちの入ったボランティア活動に繋がるんでしょうね」
それは、選手たちにとっても同様です。「イイヅカの人はあたたかい」との認識が広がり、「最も人情の厚い大会」と呼ばれ、「参加したい大会」の第2位にも選ばれるようになりました。日本のどこにも降り立ったことのない選手が、飯塚という地名だけは知っているということもあるんだとか。
そして、実際に飯塚の地で活躍した選手が、世界大会で勝利する例も出てきました。小田凱人選手や上地結衣選手など、パリで大活躍した選手たちも、みな飯塚で汗を流したメンバー。飯塚国際車いすテニス大会の存在が、車いすテニス界での日本人の大活躍に大きく貢献しているのは、間違いないと言えるのではないでしょうか。
国枝選手ほか40人が、飯塚国際車いすテニス大会の熱い40年の歴史を語った特別ムービーは、下記よりご覧ください。
Japan Open 40人史「40年ありがとう」