プロジェクト
大会の魅力である「人」に焦点を当てた企画
さて、電通九州と飯塚国際車いすテニス大会(Japan Open)事務局のつながりは、2018年に一般社団法人パラスポーツ推進ネットワークが設立されたことから始まります。この組織のメンバーから話を聞いていた電通九州の上野は、実は九州がパラスポーツ発祥の地だということを知り、驚いたと言います。
上野:「日本のパラスポーツの父と呼ばれる中村裕医師は、大分県別府市に生まれ、社会福祉法人太陽の家を設立して障がい者の自立支援に国内でもいち早く取り組みました。九州にはパラスポーツのルーツがあるんです。しかし恥ずかしながら、そんなふうに意識したことはありませんでした。九州に根ざした活動をしている我々としては、もっとこのことを理解しないといけないと思ったんです」
そして2022年夏に前田さんと初めて対面し、飯塚国際車いすテニス大会のあり方に心を動かされ、お手伝いを申し出たと言います。2023年、今度は柳瀬さんの方から電通九州に相談がありました。2024年は大会40周年イヤー、この機に合わせてプロモーションツールを制作したいという依頼でした。
電通九州のクリエイティブチームに所属する山田がまず行ったのは、関係者への徹底したヒアリングでした。
山田:「ヒアリングを重ねて印象的だったのは、この大会がいかに人に支えられてきたかということです。イイヅカ方式とは、人の力そのもの。だから40周年プロモーションも、単に歴史を伝えるのではなく、その歴史を作り、支えてきた人にフォーカスを当てたいと考えました」
提案した企画は、40年史ならぬ40人史。関係者40人のインタビュー動画を撮影し、それを1本のムービーに繋げるというものでした。
そしてスタートした撮影。大会前日のレセプションパーティーで、関係者や選手たちにお声かけし、質問をしながら生の声を映像に収めていきました。40人の中には、パラリンピック初出場の2024年パリ大会でシングルス金、ダブルス銀を獲得した小田凱人選手、飯塚でもパリ五輪でも大活躍した上地結衣選手、さらに車いすテニス界のレジェンドで国民栄誉賞受賞者の国枝慎吾選手も登場します。聞き手役を担当した辻中は、こんなことを思ったそうです。
日本は知らなくても、イイヅカは知っている
辻中:「ほぼすべての方が、大会運営の素晴らしさや飯塚の街への感謝を口にしていました。パラリンピック選手たちが、思い入れたっぷりにこの大会について語ってくれることは、私も自分ごとのように嬉しかったです」
中には、インタビュー中に涙を流す選手もいました。九州車いすテニス協会の前事務局長であり、タイや台湾での車いすテニスの普及に尽力した森国次さんへの感謝を述べ、「森さんがいたから今の私たちがある」と言っていました。このような例を多く積み重ね、世界中の選手にとって飯塚国際車いすテニス大会は特別な大会になっていったのです。
山田:「40人分の熱い想いを、10分程度の映像に編集するのがまた大変で。泣く泣く削った箇所がいくつもありましたね」
完成した動画を見た人たちは皆、当時を懐かしんだり、久しぶりに見る選手の姿に歓喜したとか。毎年約2,000人のボランティアを動員する大会ですから、40年間で相当数の関係者がいます。40年を経ても、イイヅカの精神が変わらず受け継がれていることを、ムービーによって伝えることができました。
障がい者スポーツからメジャースポーツへ
さまざまな人たちの想いと行動により、40年続いた飯塚国際車いすテニス大会。この先さらに発展していくために、皆さんがいま取り組んでいるのはどんなことなのでしょうか?
前田さま:「車いすテニスのさらなる発展のためには、競技人口を増やす必要があります。一般のスポーツと違って、偶然出会って好きになるということがなかなか起こりにくいので、こちらから積極的に働きかけて、車いすテニスの認知やプレイヤーを増やしていかないといけません」
柳瀬さま:「そのために、私たちは日本各地で体験会などを実施してきました。でも、体験会はどうしても一過性になってしまうので、身近に楽しめる環境づくりが重要だと最近は考えています。車いす生活者が、自分が住む地域のどこにいけば練習できるのか、その時にコーチはいるのか。理想は、日本中のテニスクラブに一人ずつでも車いすテニスの指導者がいる状態を作ることだと思っています」
片上さま:「現状では、車いすテニスの大会は障がいを持つ人に限って参加できますが、認知を広げていくためには、この垣根を超えていく必要があります。健常者と車いすの障がい者がペアになって行うニューミックスや、健常者でも車いすに乗って参加できる大会など、障がいの有無に関わらず参加への門戸が開かれていくようにしていきたいです」
実際に体験会を実施すると、車いすに乗ってみたいという健常者はとても多いとか。通常のテニスにはない、車いすのコントロール技術に魅せられる人も多いと言います。
山田:「私が最初にこのプロジェクトに関わって思ったのは、これを障がい者スポーツという枠に収めてしまっていいのか、ということでした。車いすという道具を操る、新たなメジャースポーツと捉えることもできるはず。そうすれば、競技人口も格段に増やせるはず。そんな意識で、これからも普及の手伝いをしていければと思っています」
最後に、電通九州の役割について上野がこのように語りました。
上野:「今回の飯塚のプロジェクトは、私たちにとっても大きな学びがありました。電通九州はパラスポーツ推進ネットワークの賛助会員でもあり、九州におけるパラスポーツ実施のサポートや情報発信など、多くの役割があると感じています。パラスポーツ発祥の地として、この九州から、意義のある活動をサポートしていきたいと考えています」
41回目、そしてその先もずっと、素晴らしい大会や試合を見せてくれることを期待しましょう。
国枝選手ほか40人が、飯塚国際車いすテニス大会の熱い40年の歴史を語った特別ムービーは、下記よりご覧ください。
Japan Open 40人史「40年ありがとう」